真壁
井上さん、完成したものをご覧になって、最初のイメージと比べてどのように感じられますか。特に行為とあかりについて。
井上
その前にもう一つ画像を見ていただきたいのですが、キックオフの提案をした後、去年の夏にドイツで見たアート作品なのですが、私がここで提案した光とすごく似ているなと思ったんです。これはZKMという、東京でいうとICCみたいな、コンピューター系のアート作品ばかりを置いている美術館なのですが、確かナチスの武器庫を改装したもので、4〜5層ある建物の中に、20メートルぐらいの吹き抜けになっているところがあります。その非常に高い天井の上からスポットライトが突然照らされるんですけれども、どういう仕掛けになっているのかわかりませんが、何かを感知してその下にいる誰かに照準を合わせるんです。そして今度はその人が動いていくところについていく。ついていって、ずっとつきっ放しかと思うと、他の人が一緒の輪の中に入れるぐらい近づくと、今度はその近づいてきた次の人ですね、今までついてきた人ではない人にくっついて動き始める。それからずっとついていって、その後、光は消えちゃう。そして、また現れるという、そういうようなアート作品でした。
すごく似ているとは思ったんですが、私が提案したのは、ついてくるんじゃなくて、どちらかというと先を行ってくれる、人の心を読んでくれる光です。これは美術館ですから非日常の空間で、アート作品ですからもちろん人の気を、注意を引くような、目標としてそういうのがあったと思うんです。
しかし暮らしの中に入ってくるあかりの場合は、そういうのでは常に非日常が起きて疲れてしまう。そうではなくて、もっと自然なあかり。人によってはよく対話をしてくれるのを望む人もいるだろうし、それほど対話はしてくれなくても、何となく自分についてくるとか、もし商品化されるようなことがあったら、バージョンはいろいろあってもいいだろうと思いました。
本旨的には暮らしの中に入ってくるあかりだから、そんなに注意を引くようなものでなくてもいいだろうと思ったんですね。それをこのエキシビジションで伝えるに当たっては、アート作品のようなものだけではわかりにくい、つまり展示会に来てこそあるものでは、暮らしの中に存在するものというふうには捉えられないだろうと思いました。そこで何かもう一つ欲しいということを角舘さんとお話し、角館さんが気配ということをおっしゃったんです。これは角館さんがいつも考えていらっしゃることだと思うし、私もすごく共感するものです。私は家を設計していますけれども、その形をつくるというよりは、その中で行われる暮らしというものを考えながら設計していくようにしたいと思っていますし、町を歩いていても住んでいる人の気配がわかるような町の方が歩いていて楽しいなと思います。今回はその辺を展開していくことができたのではないかと思っています。
真壁
昨年のディスカッションの途中で感覚の同時代性というのをふっと感じたんですけれども、これをさらに暮らしというスケールの中にどう持ち込むかということは、技術的にも難しかったと思います。