真壁
「くらしとあかり」展が今回4回目になるのですが、第1回からずっと思い返してみると、私たちの問題意識の大きなものとして、身体性というものがどうも根っこにあって、身体とあかり、あるいは身体とあかりとの関わりを、意識的にしろ無意識にしろ、みんな何かの形で主題にしようとしているんじゃないかと強く思いますね。
伊藤さんは、「液体のようなあかり」ということから、石田さんと同様に専門的職能から、まずどんなふうなイメージ、それからファイバーに至る経緯をどんなふうに思われましたか。
伊藤
最初、藤本さんの「液体のようなあかり」というのは、正直ずっと大変だなと思って、逆に楽しみにしていました。途中まで霧にしようとか、ミストにしてみようかとか、いろいろあったけれども、僕はこのファイバーで非常に正解だったんじゃないかと結果的には思っています。
あかりの原点はろうそくとか、そういうものを言う場合が多いんですけれども、今回のこの一粒一粒はもっと小さい。これも一つの光の原点的なイメージだと思うのですが、思ったのは、あかりの一粒というのは単に一粒なんですけれども、これが連続して、集まって一つの集合体になることによって、何か不思議なものが生まれてくるというのが、改めておもしろいなと思いましたね。当たり前かもしれませんが、照明デザイナーとしてこの結果を見たときの発見でした。
真壁
それはすごくおもしろいね。
伊藤
ええ。音楽でもそうですけれども、一音一音は単なる音にしかならないんですが、それが連続して高低差が生まれたり、リズムを伴って並んでくると、音楽になって人を感動させたりするわけですね。これを見ていると、光もそういうことにつながってくるんじゃないかということが、改めてよくわかりましたね。
真壁
抽象的な言い方になりますが、さっき伊藤さんがおっしゃったように、あかりの原形はたき火とか、ろうそくみたいなものに代表されがちだけれども、実は私たちの身体の中に眠っている粒子というのか、このエキシビションの風景はどうも見た風景でもあるわけで、この場というのはどこか懐かしく、郷愁的な風景である。それがどうも癒しにつながっているのかなと思いますね。
松岡正剛さんがよく言う、これはルナティックな風景、つまり月光派の美学だと思います。たいまつなんかはアポロン的、太陽的美しさかもしれないけれども、このエキシビションには月光派の持っている頼りないけれども、自分にきちっとコミットしてくるかわいさがある。だから、第1回エキシビションの蓄光なんかも僕はルナティック派だと思う。第3回エキシビションも、どちらかというとルナティックなのかな。
今回の「くらしとあかり」エキシビションは、こうこうとした意思が強い合理性を持ったあかりではなくて、十分説明はできないけれども、心にしみ入る懐かしいあかりというか、ルナティックなものが、提示されてきたように思います。どうも私たちのくらしの中で、「ただいま」と家へ帰ったときにこうしたあかりがあると、場面は全然違うんだろうと思うんですね。
藤本
そうですね。僕も今の今まで、月のようなとか、太陽のようなということは全然考えてなかったですが、くらしの中であかりがあるときというのは、そこにできてくる場とか人とすごく深くかかわっているように思います。
月のあかりがどうしておもしろいかというと、それ自体が光っているわけではなくて、まず光が月に反射し、それがまた周りのかすかな暗い中にいろいろ反射して、全体であかりをつくっている。何かが照らしているというよりは、そこにある場の全体があかりに参加しているような、そんなおもしろさがあるんじゃないかなと思います。
くらしの中のあかりというのも、実はどこかにあかりがあって、その中で暮らしているというよりは、家の中にいる人とか、置いてある物とか、そういう全てがあかりに参加して初めて場ができてくるような、そういうものでもあっていいのかなと。そういう意味では、すごく月のあかりにつながるものがあるかもしれないですね。
石田
僕自身もすごく関係というものに興味を持っていますね。関係ってすごく不思議で、実態がとらえられないじゃないですか。何かと何かの間に生まれるものだから、物としてはとらえどころがないんですよね。関係だけでできているような、とらえどころがないけれども、確実にそこにある存在というようなものにすごく興味があるんです。そういう意味では、月のあかりも関係しかないというふうに言ってもいいのかなと思うので、どこかで太陽的なものと両義性があるのかもしれないですね。
真壁
なるほどね。太古の我々の遺伝子の中には、太陽的なDNAもルナティックな月光的な遺伝子もあるだろうと思う。これがどういうわけか、月光的なものがどんどん削られたというべきか、排除されたというべきか、あるいはそれは恐ろしいもの、あいまいなものだということで削り取られてしまったけれども、「くらしとあかり」というものを豊かにしていく上では、そのバランスが必要なんでしょうかね。何ルクス以上ないとだめというのは、アポロン的な発想ですからね。暗いほうが豊かだという発想は、やっぱりタブーだったわけだよね。
石田
もともと夜は暗いものですからね。それは僕ら照明デザイナーが結構大事にしているところではないかと思います。特に住宅では重要なのが夜のあかりです。そういうときに昼の再現をするようなあかりというのは、昼間だけでいいんです。夜は夜のあかりというのが絶対あるべきですし、その中の一つとして、今回のエキシビションのようなあかりがあるのかもしれない。
真壁
藤本さんは、住宅の中での照明は、基本的にどういうふうにアプローチしているの。
藤本
今回のコラボレーションもそうですが、僕は割と任せて何かお願いしてみて、出てきたものをうだうだ言いながらやっていくのが好きなんですね。こうしたいとか、これはやめてくれみたいなことはもちろんあるんですが、照明のプロフェッショナルというのは、全然違う発想で僕らに挑みかかってくるようなところがあるので非常におもしろいんです。
これまで僕が関わった照明家は、僕の建築は非常に照明を仕込みにくいと言っていて、どうしてなのかというと、彼の言葉で言うと、いわゆる余計な演出を必要としないという、そういう何かがあるみたいです。そうすると、本当にあかりって何なのというようなことを考えないと、なかなかできない……
真壁
すごく本質的な問いになりますね。
藤本
はい、そうですね。そこに挑みかかってきてくれて、コラボレーションしてやってるのがすごく楽しいんですよね。
真壁
僕は藤本さんの住宅を見ていると、何も上から光を当てなくてもいいと。壁から出てきてもいいし、外から中に光が入ってきてもいいし、床から光ってもいい。だから、ある種の攻防のセオリーがきっと見えづらいんだろうね。
藤本
そうなんですね。どこからが中で、どこからが外で、という区別もあんまりないようなものをつくっているので。新しく大分に一戸住宅ができたんですけども、それも室内を照らす照明を外側に付けたり、大きな殻みたいなものが庭を覆っているんですけれど、それが光ることで室内にも光が届いたり、いろいろ工夫しています。
真壁
ルナティックですね。
藤本
そうですね。だから、家の全体がぼんやり光っているんだけれども、どこで照明がどうなっているのかというのがよくわからない。ただ、今回のこういう光源、僕はあまり光源が出てくるのは好きじゃなかったんですけども、これはこれでおもしろいですよね。非常に可能性がある。