真壁
では、ご来場いただいている方々に、今回の体感されたご感想をもう少し伺って参りましょうか。いかがでしょうか。
来場者
感想と少し質問を。光の量ということをヨコミゾさんがおっしゃっていました。通常、僕らが光の量と言うときには、光の明るさ、太陽の明るさの光の量とか、月の明るさの光の量というような表現をすると思うのですが、このエキシビションでは、布を使って光の領海にしたと、そういうところがおもしろいなと思いました。こういう光の量の見せ方があるのかと。それがまず第一の印象ですね。
それから、最初に拝見したヨコミゾさんの過去の作品も、体育館の後ろを全部真っ暗にしていた。今回も真っ暗です。真っ暗にするということは、いわゆる闇をつくることですね。闇というのは僕の感覚でいうと、光の量の反対の量、光のない量という意思があるんですね。それと今回の光の量、領海を含む対比、その関係みたいなところはどのように意識されていたのか。
それからもう一点は、「くらし」との関係がいま一つよくわからなくて、ヨコミゾさんとしては「くらし」を消したかったのか、むしろ手をかけてより一層意識させたのか、その辺りを伺いたいんですけれども。
ヨコミゾ
最初のご質問にある光の量に関しては、まさにおっしゃるとおりです。最大限に光と闇の量をつくる。習作と言った途端に、これは一つのスタディーですから、結論ではないし、完成形でもないという意味で、自分でもショールームの天井高、平面形の中で何本蛍光灯が必要なのか、あるいは必要ないのかもわからずに様子を見ながらやりました。そういった意味では、先ほどから繰り返し松下さんも言っているように、光の分量を調整するという意味でまだまだ表現としてやる可能性はあります。機会を与えられれば本当にいろんな実験をしてみたいなと思うんですね。そういった意味では今回は、ある均質さを出そうとしました。だから家具の配置も均一にしていますし、光も極めて均等にした。一つのベーシックな状態をつくったのかなというふうに思っています。
それから、「くらし」に関してですけれども、まず、いわゆるウエットな「くらし」というときに思い浮かべる「くらし」というのは排除したいと思いました。だからこそ4階のショールームはとてもクールでよかったんですね。物しかない、記号性しかない、においもなければ太陽もない、これはまさにうってつけだというふうに思ったわけです。
自分自身で「くらし」について何とか手がかりをつかみたいなと思って調べると「くらす(暮らす)」という言葉は、漢字で書けばくさかんむりに日がついて、また日がつく、そして傘みたいになっているんですね。つまり草をかぶったり屋根をかぶったりして日を過ごしていくということが漢字にはありそうなんですけど、語源を調べると「暮らす」という言葉には一日を暗くなるまで過ごすという意味があるんですね。その次に日々過ごしていく、一日じゃなく、次の日、次の日、日々過ごすという意味があって、最後に別の意味は、ある一定期間終わりまで過ごすという意味があって、いずれにしても最後は暗くなる。最後は死ですね。
「暗い」という字もおもしろくて、日が二つあるんですね。その上に立つと。日が陰るまで時間を過ごして、しかも暗くなってもまだ立っているという、これはなんだか元気になりそうだなと思いました。暗くなってもまだ頑張るぞみたいな。暗くなって色温度を低くして何となくだらーっとして終わってしまうのではなくて、暗くなってもまだスタンディング状態でいるというのが自分自身のような気もして。そういう「くらし」に対するコンベンショナルなイメージをどんどん崩して崩して壊していったときに何があるのか。とにかく最後死ぬしかないんじゃないかというところまで一回たどり着いた後に、さあ何をやるかという考え方をしたんですね。
リュック・ベッソンという映画監督がつくった映画で「最後の戦い」という邦題がついている映画があります。白黒映画なんですけど、何かの理由で起きてしまった最終戦争、その後という想定なんですね。オフィスビルだろうが、住宅だろうが、町だろうが、全て白い背景で、その中で限られた人間が言葉を失ってしゃべれない状態なんだけれど、何とか生きてくという映画です。その白と黒のグラデーションしかない世界、そのイメージが浮かんできて、「くらす」ということの意味を考えさせられました。人間がそこで極めて本能的に、たとえ動物のようになろうとも何とか生きてく。その映画を思いつつ、死の灰ではないですけど、白く雪が降り積もったような状態に「あかり」が発光している。そしてそこから何か寂しいものが立ち上がっていくということを予感させるような、そんなストーリーを4階のショールームにつくれたらいいなと思ってやっていました。