乾
自然光に対してもう一つイメージがあります。私の事務所は明治神宮の近くにあるので、時々、神宮の森の中を散歩しますが、その中の光の状況が大好きです。森の中によく目をこらしていると、部分的に輝いているスポットがあるのを発見します。下草とか中木に、部分的にそこだけ発光しているかのように光が当たっているのです。どこからその光が来ているのかさっぱりわからない。本当に葉だけが光っていて、その先の土も見えない、葉だけの世界が浮かび上がっているのです。
それは、木々のこずえというフィルターを通した光が、その足下にある中木とか、下草の辺りに届いているという状況です。こずえによって非常に細かく分断された光線が、中木や下草といった非常に複雑な形態を持つ面に当たっているわけですが、光と受光面の関係が複雑すぎるので、まるで葉が発光しているかのように勘違いしてしまう。そういった不思議さに近づけたらいいなというのがありました。今回、造花を植えたことで、何となく神宮の森の体験に近づけたことは、自分としてはよかったなと思っています。
真壁
なるほど、そういう風景を日常的に目撃していたのですね。こうした乾さんの発想には、大学での体験も何か関係していると思われますか。
乾
大学そのものが影響しているかどうかわからないのですが、建築というものを工学的にとらえるのか芸術的にとらえるのかという区分けの仕方があります。例えば、日本では芸術系、美術系で建築を教えている大学がいくつかあり、私もそのうちの一つに通っていました。
美術という視点から物事を眺めると、道筋、つまり仕組みの問題よりは効果の問題のほうが大きくて、芸大みたいな場所にいると「何をつくったのか」「どういう効果が、その作品にあるのか」みたいなアウトプットに対する関心を植え付けられるのです。工学系の建築科では、結果というよりむしろ、そこに至るルートのほうが大切だという考え方で教育をする場合が多いでしょう。それはそれですばらしいと思っていて、憧れすら感じるのですが、私はそうではないほうで教育されてしまっている。
もちろんアウトプットだけよければいい、というのでは建築といえなくて、両方ないと建築としてはだめですね。ですから二者択一してはいけませんし、できません。しかしどちらの方向から考えをスタートするか、という問題は残ります。私はどちらかというとまず結果を考えて、そのためのルートを後から探し出すというふうに考えるほうです。このエキシビションも、結果を先にイメージして、そのためにはどういうルートがあり得るのかということを考えてやっていた感じです。
真壁
目の前の風景が一層すばらしくわかるのではないかと思います。その中でルートのチェックがいくつかあると思うのですが、それは照明の知識というものだけではないように思います。つまり、伊藤さんに投げかけた課題だとかいろいろあると思いますが、例えばヨーガンレールも含めて、乾さんがこれまでにもトライしているような建築的な課題。
それから、例えば照明家が神経質になるところと、そこは別に問題にしなくていいのではないかという建築家とのずれ。そういう部分が、恐らく今回の建築家と照明家のコラボレーションの中に生じているのではないかと思うのですが、いかがですか。

乾
生じていると思います。結局、今やろうとしているのは、照明と建築が抜き差しならない状況をつくろうということです。要するに、どちらかがなくなると何もおもしろくないような状況をつくろうとしているわけですね。照明に関して言えば、遠藤照明の倉庫にあったごく普通の照明器具を設置しているだけですから、床の効果がないと何にもおもしろくないという状況です。かつ、今、設置されている照明を消して蛍光灯にチェンジして、床だけ見ても何の意味もないような状況になっていて(笑)、両方があって初めて生まれる効果をつくろうとしています。
今回のプロセスで非常に難しいと思ったのは、あまり誰も試したことのないことをやっているからか、コミュニケーションのための言葉を持っていなかったということです。伊藤さんは一回目の打ち合わせで、今日の前半に説明したような照度と輝度の問題だろうということはおっしゃっていたのですが、それは概念的には理解できても、例えばどうやってその輝度を測るのかということは全然わからない。だから、いつまで経っても概念レベルの話にしかならない。
さらに、実験をしていると目の錯覚という問題も出てきて、例えば、伊藤さんは実験の最中に「今の状態で色はそろってますよ」とおっしゃるのですが、私にとっては「それは目の錯覚でそう見えているだけで、もう少し冷静に見てくれないと困る」というふうに感じられたり(笑)。じゃあ「カメラを通して見てみれば客観的に見えるのではないか」と写真を撮ってチェックしようとするのだけど、光量の問題からカメラがとらえきれなかったり、かなり錯綜したコミュニケーションを繰り返しながら作業をしていたという感じです。
何か新しいことを試みようとするならば、コミュニケーションする方法を開発するしかないのですが、その時間もなかったのだから仕方がないことだと思います。