乾
これだけ複雑なあかりの状況に似合うくらしを考えていると、家が広いほうがいいなと思いました。家というよりは庭のようなものをつくっているからか、コンパクトにまとめて機能的で小さいほうがいいというよりは、広くてリラックスできるような場所としてくらしを見つめ直すことができるのではないかと思いました。
真壁
いろんな意味で、くらし方とか住まいのたたずまいも含めて、あかりの創造力、あり方がこれからたいへん重要になってくるんだろうなと思います。
乾さんはこれまでにもヨーガンレールをはじめ、あかり、あるいは明るい、あるいは暗いということに様々なトライをされていますが、今回のエキシビションは自分の中でどういうふうに位置づけられますか。
乾
実は、心斎橋の大丸にあるヨーガンレールの店を3〜4年前に計画したときに、やはり同じようなことをしました。
光が当たっている場所を隠すためにグレーの塗料をペタペタと塗っていって、光源の位置がさっぱりわからない、何か雲の中にいるような、要するに飛行機に乗って雲の中に突入してしまうと前後左右わからなくなるという状況が生まれると思うのですが、そういう雰囲気を感じる空間を目指しました。今回はもう少しそれを自覚的にやってみようと思ってこの案を出したのです。
照明の問題はいつでも、光源、つまり仕組みがわかってしまうというところにあると思うのですが、とにかくそれを消せればいいなと思いました。
話は少し飛びますが、かつて、ルイス・カーンは人工照明の元で建築など存在できないと言いました。要するに、自然光のもとでしか建築のリアリティはつくり得ないと主張したわけです。そんな風に人工照明に対してほとんど興味がない建築家像というものがあります。

私もその感覚は共有しているつもりでして、人工照明を建築的アイデアに盛り込むのは非常に難しいといつも思っています。人工照明に頼った空間をつくると、それは虚構的というか、劇場的というか、生活の日常性からかけはなれた空間になってしまう。そうしたものにあまり興味がありません。
ですから、人工照明を考えるときでも、非日常の遊びの空間をつくるというよりは、いかに日常とつながったリアリティーを持ち得るかということに興味があります。そのリアリティーのつくり方の一つとして、自然光と人工照明の差をなくすことを考えてみるのは有効だと思います。その一つとして、光源の存在が気になるか気にならないか、ということがあると思っています。もちろん私たちには太陽が見えるのですが、いちいち気にしてないと思います。それに対して、人工照明は距離が近いから気になってしまう。太陽が持っている光を、私たちは光という結果を受けているが、原因そのものを気にしなくていい、ああいう光と人間の距離感、太陽と私たちの距離感に、今回、仕組みがわからないという状況をつくることで、多少は近づけたのではないかと思っています。
真壁
伊藤さん、乾さんがおっしゃった人工照明に対する挑み方といいますか、そういう発言に対してどのように思われましたか。
伊藤
住宅の空間があまり作為的な光ではないほうがいいというお話は、私も、人工照明ばかり扱っているにもかかわらず非常に共感するところです。
「くらしとあかり」というプロジェクトは、基本的に自然光とか、そういうことをテーマとして進もうとしているわけですが、まさにナチュラルというか、自然に光を感じて暮らしたいということはやはり基本だと思います。住宅の中で商業施設のようなあかりがあってもいいかもしれないけれども、できればそれは最低限にして、ナチュラルに暮らしたいと個人的には思います。こういうエキシビションを通して何がそこにつながっていくかというと、自然光というのはナチュラルだけれど、ものすごくデリケートだと思います。
そのデリケートさをきちんと理解するという意味で、このように人工で、とってもデリケートなことをやってみるということが大事なのではないでしょうか。それを知ることによって、ナチュラルなあかりをどう使っていくかということにつながっていくのかなと思います。
真壁
自然光というものを僕らは絶対視しがちだけれども、その中には様々な表情がある。例えば先程申し上げた「アパートメントI」は、自然光だけれども、都市の中のわい雑な自然光の持っている濁り加減まで含んで、しかもそれを許容しながら家の中に持ち込んだことが非常にすばらしいと私は思います。そういったヒントを、人工光でもう一度とらえ直すことによって、照明の技術のイノベーションといいますか、前に進むことができるのだろうと思います。
私たちは、とかく光源の革新だけが照明の革新のように思いがちですが、今回使用した照明は、技術的にはいかがなのでしょうか。